さなえの計算用紙

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同性婚や個人主義、新しい思想について その1

2022年6月20日同性婚が受理されないことは違憲だとして国を提訴していた裁判の大阪地裁判決が下された。

www.huffingtonpost.jp

 

これについて、大学時代のサークルの先輩とレスバ(?)になったためここに記録しておく。ツイッターでは途中でツリーが分かれてしまったり、全体を見通すことが困難になったためこちらに転載する。ヌケモレがあれば指摘をいただければ修正する。後輩のtkcさんとは一往復のやりとりしかないため、ここには転載しない。

ツイッターとこのブログとで見解に矛盾がある恐れがあるが、その場合はこのブログを正として読んでいただきたい。

(2022/6/22追記)このブログの影響かは不明だが、tkcさん(@tkcper)からツイッターをブロックされたことを報告申し上げる。

 

 

 

↓ツリーが分離したため再掲。

 

井上さんの提示した5つの論点について順にみていく。

憲法24条

1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

①法律は時代とともに変化するものではないか?

これは井上さん個人の意見を「時代」に言わせている疑惑がある。法律が改正されることは日常的に行われているが、それは単に法的な不備や執行上の問題点の是正である場合もある。このようなものは「時代とともに変化」しているとはいえないと思う。

一方で、同性婚推進論や死刑廃止論などは、上記とは異なり「時代とともに変化」しうるものと考える。これを否定することはできない。同性婚に限定すれば札幌地裁判決で合憲という判決が下されている。地裁によって合憲か違憲かという判断が分かれており、このまま控訴や上告をしても一気に合憲という判断を得ることは難しい。合憲な同性婚を目指すのであれば、同性婚禁止が違憲であるという判決を取りにいくのではなく、井上さん自身が言及するように「立法において変革・アップデートされる」ことを期待して、国会議員にアプローチをしていくことが重要と考える。現段階では合憲であるという判断に対して人道的観点から疑義を呈することはできるが、法治国家として適切なルートを通る必要があるだろう。

同性愛者が法的な婚姻関係を認められないことが人権侵害か、という点については、人権侵害と捉える向きがあることに不思議はない。しかし、人権侵害を是正することによって生じうる問題の検討をすることなく是正しようというのであれば、そこには明確に反対する。

 

②共同体に同性婚を認めるインセンティブはあるか?

井上さんは

「共同体はそれを求めていない、と言うのはそもそも集団錯誤では。個の集合が集団であり、個人の幸福の追求は即ち社会の幸福に繋がるのでは。多様性を認めることとそのメリットは疑いようがないことに思う」

「多様性を認めて社会を成熟させるのは共同体におけるメリット」

「個人的な事象についての話ではなく、人権の話だよ」

と主張する。

まず、「個の集合が集団である」という主張が誤っている。例えば人気音楽ユニットshowmoreを考えてみよう。showmoreはメンバー二人からなっているが、ひとりひとりがバラバラに演奏したときとshowmoreとして演奏したときを比較して、1+1=2は成り立つのだろうか?これに限らず、個人の考えや行動と集団の考えや行動は一致しない。集団の考えや行動は、個人のそれらからは遊離して予想していない方向に進むことがある。民間企業の現場社員と経営層では現場社員の方が数が多いだろう。現場社員の考えAと経営層Bの考えがあるとすると、間違いなくBの考えが採用されるだろう。また、山本七平『空気の研究』でも述べられているように、指導者層の個人では戦争に負けるとわかっているなら戦うべきでないと考えているのに、組織としては戦闘に向かうという判断がなされることもある。

「個人の幸福の追求は即ち社会の幸福に繋がる」という指摘については、個人間の幸福がまったく衝突しない場合には当てはまることもあるだろうが、一般的に考えて個人の幸福や利害がまったく衝突しない社会は存在しないと考えるのが自然ではないだろうか。命題「個人が幸福である⇒社会が幸福である」が真とはいえない。同性婚が法的に認められたとして、税制の優遇措置などによって公金の支出が増え、それにより国民全体の負担が増えたとしたら、それは社会が幸福であると主張できるだろうか。

多様性を認めることのメリット(これは同性婚に限らない)については、現在の先進国が有する人権意識をベースに考えれば、メリットが大きく感じられるだろう。一方で、多様性(同性婚の文脈でいえば平等観も含まれる)を認めて推進することが少子化に寄与していることを示唆するデータも存在する。少子化を解決すべき社会的問題と考えるならば、少子化問題は多様性や平等観を重視することとトレードオフの関係になっていると主張することが可能である。それでもなお進んだ人権意識によって同性婚を推進しても構わないが、近い領域で生じる問題にどう対応するのか(あるいは対応しないのか)について多少なりとも検討するべきではないだろうか。多様性を認めて社会が成熟することはメリットである、という主張には一部納得するものの、逆にその成熟した社会がはらむ問題にどうアプローチするのか検討しないのであれば、ただの個人のわがままと捉えられても文句は言えないのではないだろうか。

president.jp

sakisiru.jp

 

同性婚が法的に認められた際に想定される問題点は?

私は、同性婚少子化の原因のひとつであるとは主張していない。また、学生論文が指摘するような同性婚の制度の有無と少子化に相関がなくとも少しも不思議ではない。同性婚の制度があるからといって、異性愛者が同性婚をすることは極めてまれであろう。異性婚をしても子どもをもうけるかどうかは実際のところその夫婦によるものであり、同性婚と結び付けて議論することに何の意味もない。いわゆる「おひとりさま」や「女性の社会進出」という比較的新しい考え方が少子化の原因になるのではないか、と私は考えるが、これは人権全般の話となるため、今回の同性婚の議論ではこれ以上広げないこととする。

「普通に考えて同性カップルが養子に迎えやすくなったりとか受け皿が広がるメリットは考えられる」というのが井上さんの個人主義らしさを表していると考える。つまり、子をなすことをアウトソースし、社会構造にフリーライドしたうえで、子育てという部分(同性婚者からするとおいしい果実なのだろう)をかすめとることを是認している。養子を迎える権利が、子を産む女性の権利と衝突する可能性について何も考えられていない。

仮に同性婚が今の法律のままで法的に認められたとしよう。そうすると、今いる同性愛者の一部は法的婚姻関係となるだろう。すると、同性婚者は税制面での優遇を受けることとなる。優遇される人がいる一方で、社会のどこかにはその肩代わりをする存在がある。同性愛者のかわりに子を産む女性、かわりに税負担をする独身者……。いわゆる「生産性のない」人たちがこのようなフリーライドをすることを許容するかどうかについて、同性婚推進論者からの見解の存在を確認できない。

「生産性のない」人たちが優遇されることの是非については、井上さんの指摘のように理由は何であれ子をなさない異性夫婦にも同様に考える必要がある。たとえば、異性婚の中でも子の人数等により優遇のレベルを変える(フリーライドを規制する方向)という対応は検討されるべきと私は考えている。何の優遇もない同性婚の制度(ただ法的に認めるということ)を新たに作るというのであれば、私も反対の意思を表明していないかもしれない。

現在は子の人数によらず法的婚姻関係にある者は優遇を受けているが、同性婚の議論と並行して、異性婚者も子の人数によって優遇に差をつけることが望ましい。

現状は、同性婚を法的婚姻関係として認めろということと、それによる優遇を与えろという主張がほぼイコールとなっていることは否めない。同性婚・異性婚ともに「優遇はもらうが社会構造の維持や発展(たとえば子をなすなど)には寄与しない」という思想の人々が増えると、長期的には人口減少や国家の存続が危ぶまれるだろう。先進国を中心に「自分らしい生き方」を重視する個人主義が優勢であるが、どこまでも広げてよいとはいえない。

 

大阪地裁判決要旨を引用する。

2 本件諸規定が憲法24条2項に違反するかについて

(2)イ しかし、同性カップルについて公認に係る利益を実現する方法は、現行の婚姻制度の対象に同性カップルを含める方法に限られず、新たな婚姻類似の法的承認の制度を創設するなどの方法によっても可能である。そして、本件諸規定は、単に異性間の婚姻制度を定めたにすぎないものであるから、同性間について婚姻類似の公的承認の制度を創設することを何ら妨げるものではない。このように、個人の尊厳の観点からは同性カップルに対しても公認に係る利益を実現する必要があるといえるものの、その方法には様々な方法が考えられるのであって、そのうちどのような制度が適切であるかについては、現行法上の婚姻制度のみならず、婚姻類似の制度も含め、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因や、各時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた上で民主的過程において決められるべきものである。国民の間でも、同性愛者に法的保護を与えるべきとの意見が高まっているということはいえるものの、これらの意見は現行法上の婚姻制度をそのまま認めるのか、婚姻類似の制度を新たに設けるべきであるかについて必ずしも区別がされていない可能性がある。

同性婚推進論者は、どのような法的婚姻関係が望ましいと考えるのか示すべきである。具体的な提案に欠けるなら司法も立法も行政も変わらない。

 

また、個人主義をベースに同性婚を認める考えをするならば、同じ理屈によって民法で禁止されている重婚や近親婚も「自分らしい生き方」をもって認めるべきという考えに行きつく。もし、同性婚は認めるが重婚や近親婚を認めないと考えるならば、その理由はなんなのだろう。子をなすことや社会構造の維持を重要視するなら、同性婚よりもまず重婚や近親婚を解禁する方がよいと主張することも可能である。同性婚単体の議論ではなく、婚姻全般について議論することが求められるのではないだろうか。

 

④結婚のあり方と家族の形

③でほぼ書いてしまったためここでは簡単にまとめる。婚前交渉は法的婚姻関係や優遇と関連がないためここでは取り上げない。

井上さんは

「子を成し遺伝子を残したいという本能と、子が成せなくとも好きな人と公的に認められた関係として社会の中で誇りを持って添い遂げたい」

「そういった関係の中でジーンではなくミームを残したい。その2つの価値観は喧嘩するものではないでしょ」

と主張する。

現実問題として、事実婚も含めて結婚するかどうか、子をなすかどうかは個人の裁量に任されている。この観点でいえば、同性婚は法的婚姻がないという意味で平等でないと主張することはできる。少なくとも、個人や民間において異性愛や同性愛に関する偏見は昔よりは少なくなってきているだろうし、祝福もされるだろう。個人や民間のレベルでは「価値観は喧嘩」することはあまりないと思われる。しかし、この考えを共同体や国家が法的に認めること(現行法のもとでは優遇を与えること)に拡張することには飛躍があると指摘したい。個人主義と社会全体の正義は衝突することがある。

 

もはや同性婚に限った話ではない。

「今まで通り結婚して子供作る人は作る。作らない人は作らない。結婚したい人はする。しない人はしない。その平行して存在しうる営みの中に一体どんな「人間社会をおかしくする」要素が?」と井上さんは主張するが、たとえばアーティストのような「自分らしい生き方」を選択できるのは、子をなしたりインフラを整備したり、ある意味で常識に囚われた、時代遅れな思想や生き方をする人たちのおかげであるという事実を完全に無視している。「男女平等」「教育機会や雇用機会の均等」なども、そういった生き方や思想をもつ人の存在は、身の回りとは限らない誰かの存在(犠牲といってもよい)の上に成り立っている。下記のような意見は社会へまったく目をむけていない。

 

「生殖は人間にとっての一側面なだけであって本質では無い」という意見は人間の社会的あるいは文化的な一面にフォーカスしているように思える、アーティストらしいコメントだが、生殖がなければ井上さんは存在していないことを認識することは一定の意義があると考える。

 

⑤そもそも「議論」されているか?

これについては公的および個人的な議論は活発でないといえる。しかし、今回のように同性婚が話題になれば「同性婚」についてのみ(他の婚姻や社会への影響は?)、ウクライナからの避難民の受け入れが話題になれば「ウクライナからの避難民の受け入れ」についてのみ(他国の難民を差し置いてウクライナを優先する道理はあるのか?)が議題になる印象がある。周辺領域も含めた議論が望まれる。

社会的な問題についてはよく「海外では~」という意見が散見される。海外の制度が適切である(日本にもフィットする)保証はない。井上さんが提示した学術会議の資料も「海外では認められているのだから日本で認められないのはおかしい」というような学者とは思えない記述がみられ、これをまともに通読することは苦痛である。文書の性質上、婚姻制度については同性婚のみが取り上げられているが、性的マイノリティの文脈でも婚姻制度の文脈でも、周辺の領域も含めてどのように乗り越えていけるのかを提示してほしかったとは思う。